相手は誰でもいい多対多のコミュニケーション

ネット上のコミュニケーションは、「自分と同じ話題に関心を持っている相手や、自分の興味を持った相手と話したい」という欲求が基本だと考えていたが、「自分と同じ話題に関心を持っている相手なら誰でもいい」という面も実はある。相手は代替可能なのだ。
よく「ネットの世界はバーチャルで、そんなところでのコミュニケーションは本物でない」といったステレオタイプな批判があるが、こういった批判はネットのなかでは当然笑い者にされやすい。自分もこうした批判の大半は、ネットという新しいコミュニケーション形態への恐怖心や無理解から生まれていると考えるが、もし、こうした「相手が代替可能なコミュニケーション」を求めている姿を恐く感じているのだとしたら、それは考える必要のある批判ではあるのだろう。

相手は誰でもいい多対多のコミュニケーション : ARTIFACT ―人工事実―

かのせさんによる考察。ちょっと考えさせられるテーマを含んだ文章。かのせさんはこういう話題をスッとすくい取って表現するのがうまい。
Twitterでのコミュニケーションともニアミスしていると思う。ゆるいつながり。
代替可能、交換可能な人間関係を恐く思う人というのは確かにいそうだ。端的に言えば「自分は見捨てられるのではないか」という不安だ。相手にとって自分が交換可能な存在だとしたら、それは恐いだろう。それはかなり根源的な不安だ。でもその一方で、自分は他の人を交換可能な存在として切り捨てたりすることもあるのだろう。
ちなみに「かけがえのない」という表現はまさにその逆で「交換可能ではない」「代替不可能な」という意味である。

追記:
ふと「キャラがかぶる恐怖」というのも関連しているような気がしています。特定のグループや仲間の中で別の人と自分のキャラがかぶってしまうと「交換可能性」が顔を出してしまうのかもしれませんね。